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鬼子母神

鬼子母神縁起

「弘安五年(1282年)九月十八日聖人参籠」
 ある秋の夜のことでした。庫裡の雨戸をたたく風の音の中になにやら人の気配があります。寺のものが出てみると一人の武者が立っていました。一夜の宿をというので訳をきくと、重病の聖人をお連れしているといいます。これは池上へ向かう途中の日蓮聖人の一行でした。侍僧と武者に抱きかかえられた聖人は、疲れ切って身体を動かすのもままならず、激しい痛みに苦しんでおられたので、すぐさま堂内へ運び、さまざまに介抱してさしあげました。そして「これから行かれる池上は近いところですが、このように病気の重いお身体では夜道は無理でございましょう。まずはよくお休みになり、明朝にご出立なさいますように」と申し上げました。

 翌朝、まだ痛みが続いてつらい中にもようやく身を起こされた聖人は、ずっと身につけてきた鬼子母神の尊像を侍者に持たせ、当山の住持に「私は大志をもって、名を万夫にあげ誉れを後代に著わそうと覚悟を決めて一宗を開きました。池上村で養生し、病気がよくなりましたならば鎌倉へ行きたいと思っておいます。これからはお互いに助け合ってまいりましょう。」と申され、尊像を寄進して池上村へ出発されました。

 後日「馬込村には私の宗旨は広めません。」との言葉が伝えられ、以来当山と本門寺との親交は深く、事実この大戦まで馬込には日蓮宗は一ヶ寺もなく、池上にも曹洞宗は一ヶ寺もありませんでした。また、「本門寺建てかえの時には萬福寺から屋根用の竹萱が寄進され、本門寺奥殿には萬福寺席が常置されていた」と伝えられています。

鬼子母神のいわれ

 鬼子母神の発祥は古代インドです。昔、人間の子を殺しては食べてしまう鬼女がおりました。あまりの所業に人々は怖れ嘆き、お釈迦様に訴えたところ、お釈迦様は彼女の多くの子供のうち、一番末の子をそっと隠してしまいました。彼女は七日間の間愛児を探し歩きましたがみつけられないので悲しみと苦しみで死にそうになり、ついにお釈迦様に救いを求めました。
 お釈迦様は彼女に「お前は一人の子を失って苦しんでいるが、これまでお前の食べた子は何百何千、その子らを失って苦しんだ親兄弟は何千何万である。」とさとされました。これをきき初めて彼女は子の貴さを痛感し、その行いを悔い、お釈迦様の弟子になって法華経と子どもを守る誓いを立てました。
 そこでお釈迦様は子を返してやり、「お前に食べられてしまった子どもたちが、お前の鬼人力と法華経守護の法力で、世の母親の腹中によみがえるよう神力をつくしなさい」と申されました。こうして鬼女は慈悲の心あふれる鬼子母神となったのです。鬼子母神はインドでは古くから子授けの神としてまつられ、仏教と共に日本へ伝えられました。特に日蓮聖人は、法華経の中の陀羅尼品に説かれている鬼子母神と十羅刹女を深く信仰されたので、鬼子母神信仰は日蓮宗の普及と共に全国へ広がっています。

鬼子母神の変現

鬼子母神の尊像と日蓮聖人墨蹟一軸は、寺宝として大切に伝えられてきたものですが、昭和の初めに何者かによって行方が分からなくなりました。ようやく探し当てた時は訳あって御迎えができず、そうこうするうちにまた行方不明になってしましました。しかし、聖人との由緒を長く伝えるため、昭和六十二年に「聖人御一泊の地」の石碑を建立したところ、まことに不思議なことですが、翌月に静岡県吉原の岸本氏から突然「父が持っていた御尊像を戻したい」との申し出があり、同年十一月二十五日、元の所へ無事御奉納できました。実に有難き因縁と申せましょう。