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萬福寺年譜

年譜

建久元年(1190)
7月
大井村丸山に萬福寺が創建される。開基は梶原平三景時公である。
正治二年(1200)
1月20日
梶原一族は関東を追われ京へ上る途中駿河国にて一族全滅す。景時の弟友景や一族の妻子たちは帰郷して逃れた。その後、残った一族は許されて幕府に仕えた。
承久年中(1219~1222)
梶原景季の長男梶原三郎兵衛尉景望は大井村を領し、大井梶原氏の初代となる。
建長年中(1249~1256)
三代目梶原三郎左衛門尉景氏は先祖の墓と阿弥陀堂を馬籠村へ建立す
弘安五年(1282)
9月18日
日蓮上人は千束池で休み、夕暮れの中を池上へ向かったが、病状は重く進退極まり、馬籠の萬福寺阿弥陀堂へ宿泊される。翌日に聖人は念持物の鬼子母神を当寺へ奉納され村人たちに送られて池上邸へ到着された。
元応二年(1320)
10月
大井村丸山の萬福寺は火災で焼失し、第六代の梶原掃部助景嗣は寺を馬籠へ移し、居城も馬込へ移動した。
元徳二年(1330)
11月
萬福寺所蔵板碑の最古のもの、その時以降文明六年までの145年間の在銘板碑15枚と他に30枚が所蔵される。
天正十九年(1591)
11月22日
当寺開山明堂文龍大和尚が遷化される。
天正三年(1575)鎌倉郡山田村の徳翁寺四世の明堂文龍禅師は当寺を曹洞宗に改めて慈眼山無量院萬福寺を再興した。
慶長年中後半(1607~1615)
開基梶原景時公の石塔(現在の五輪塔)を再建す。
寛永九年(1632) 
11月22日
当山第二世虎山紋龍大和尚が遷化される。
慶安二年(1649)徳川幕府より御朱印地六石四斗余を下付される。
承応二年(1653)
1月20日
当山第三世天永源尭大和尚が遷化される。
寛文四年(1664)
2月15日
本堂前へ石灯籠一基を建立す。施主北村七右衛門。
寛永二年(1705)三界万霊塔が建立される。
宝暦年中(1751~1764)
この頃本堂焼失し、再建する。
宝暦四年(1754)
十一世萬柱風峯大和尚が本堂前へ石造地蔵尊を建立す。
寛政年中
(1789~1798)
この頃江戸名所図会が編纂され、当山の風景が書写される。
文政天保年間(1818~1844)
この頃本堂庫裡を大改修する。
弘化三年(1846)
7月1日
十九世観道和尚は山門額(現在の慈眼山の額)を造る。施主金子甚兵衛が奉納し、その子孫金子貫十郎と金子信昭が昭和三年9月に修繕した。
万延二年(1860)
2月
殿鐘を馬込村久保東の壇中が協賛して寄附す。
明治十五年 (1882) 6月二十一世具戒和尚は門前へ三国伝来の石碑を建立す。
明治三十三年 (1900)
7月
二十二世戒定和尚は殿鐘を再鋳す。
明治三十三年 (1900)
11月3日
二十一世具戒和尚は長谷寺住職になっていたが、永年の宿願であった梵鐘を萬福寺へ奉納し鐘楼を建立落成した。
大正十年(1921)
9月
当時監寺佐々木黙仙和尚は当寺に報恩のため開山堂へ銅灯籠一対を寄進奉納す。
大正十二年 (1923)
 9月1日
関東大震災にて倒潰は免れたが本堂庫裡とも被害甚だしく、九月中に補修工事を実施す。
大正十五年 (1926)
10月10日
これまで草葺であった本堂屋根を銅版葺に改修し、瓦葺玄関を新築し、落成式を実施す。
昭和六年 (1931) 
11月29日
開山堂(鉄筋コンクリート造り、現在の建物)と庫裡(現在の庫裡、旧書院)を新築し、落成式を挙行す。
昭和二十八年 (1953) 
11月30日
山門草屋根葺替、閻魔堂新築が完成す。
昭和六十一年 (1986) 
10月1日
山門前に名馬磨墨の銅像を造立す。(開創八百年記念)
昭和六十一年 (1986)
10月31日
当山開創八百年記念法要を厳修す。
昭和六十二年 (1987)
6月5日
日蓮上人御宿泊伝説を伝承するために、馬込村の伝説を記した石塔を建立す。(開創八百周年事業)
昭和六十二年 (1987)
10月25日
昭和初年以来行方不明であった日蓮上人御奉納の鬼子母神が返納奉安される。
平成二年 (1990)
 1月20日
開基梶原景時公の木彫坐像を造る。(下山昇先生作)
平成八年 (1996) 
2月
梶原殿を建立す。(梶原景時公八百回忌記念事業)
平成九年 (1997)
10月1日
鐘楼を移転して通用門を建立す。
平成十年 (1998)
1月12日
魔尼輪堂を建立す。(梶原景時公八百回記念事業)
平成十年 (1998)
10月20日
無量門を建立す。(梶原景時公八百回忌記念事業)
平成十年 (1998)
10月20日
杉山洞窟に坐す頼朝と景時像を造る。(下山昇先生作)
平成十七年 (2005)
 4月9日
本堂を木造復元工事として新築し、落成法要を執り行う。